招かれた喜び
マタイによる福音書20章1-16節
◆「ぶどう園の労働者」のたとえ 20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちは、主イエスと弟子のペトロの対話を、御言葉より語られました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18:21)と問うた一番弟子のペトロに対して、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(18:22)と、主は言われました。そして、一つのたとえを話されたのです。
一人の家来が王に対して膨大な借金をしていたのですが、王は助けを求めるその家来を憐れに思って赦し、彼の負債を帳消しにしてやりました。外に出た家来は、金を貸していた仲間と出会いました。家来は赦されたばかりでしたが「借金を返せ」と仲間の首を絞め、返せないと分かった時、仲間を牢屋に入れたのです。この報告を受けた王は、家来を呼び、借金を返すまで同じように牢屋に入れたというのです。
王は神さまであり、家来とは私たち一人ひとりを指します。“神さまによって背負う罪は帳消しにされたのであれば、あなた自身も人を赦すべきではないのか”と、主は語られるのです。赦しが無ければ、互いの間に新しい関係は結ばれません。主に赦された者として人を赦す者に、関係を断つ者ではなく結ぶ者となることへの招きの御言葉です。
主イエスによって肩代わりしていただいた神さまへの罪という負債は、私たちには返すことのできないものでした。それでも、主は神さまに対する罪の赦しがあることと、新しく生かされる道を指し示してくださったのです。その限りない優しさに倣っていきたいと、改めて教えられました。
さて、本日の御言葉で、主イエスは「ぶどう園の労働者のたとえ」を語っておられます。
ある家の主人は、夜明け、午前9時、12時、午後3時、そして、夕方5時頃の計5回にわたって広場へと向かい、自らのぶどう園の労働者を雇いに出かけました。通常、労働は夜明けから、日が沈む6時頃まで行われていたようです。夕方の5時といえば、もう日が沈む直前ですが、主人はまだ広場に立ち尽くしていた人々へと声をかけ、自らのぶどう園で働くよう招いています。
さて、当時は日没と同時に、その日の労働賃金が手渡され、皆家に帰って行くのですが、このぶどう園の主人も監督へと、最後に来た者から順に一日の労働の賃金を支払うよう指示しています。
まず、夕方の5時から働いた者に対して、1デナリオンが手渡されました。これは、一日の労働に対して支払われる一般的な金額です。これを見た朝から働いていた人々は、“気前のいい主人が自分たちへとさらに大きな額を支払ってくれるだろう”と期待しながら並んでいました。
ところが、朝から働いた者に手渡された賃金は、夕方1時間ほどしか働けなかった者と同様の1デナリオンだったのです。最初に雇われた人たちは怒り、主人へと「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(20:12)と、不平を言いました。
すると主人は答えました。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(20:13-15)。
このたとえを聞く限り、朝からぶどう園にいた者の方が明らかに頑張って働いたのであり、同じ金額が支払われたことで不平が出ることもうなずけますが、ここでは夕方の5時まで立ち尽くしていた人のことを覚えたいのです。
彼らもまた、夜明けから並んでいたのかもしれない中で、結局、雇っては貰えないまま仕事の終わりを告げる夕暮れを迎えようとしていました。希望を持って始めた一日が夕日と共に沈み、消えてしまいそうだったとしても、彼らが座り込まずに立ち続け、雇ってくれる人を待ち続けた姿が描かれています。食事をとれないほどの極貧に悩まされていたのかもしれませんし、病気の家族がいたのかもしれません。理由は書かれていませんが、彼らの姿からは「諦められない」という執念がうかがえます。いかに「待つ」か、どう希望を持つのかということについて、想像を超える重みがそこにあるように思います。現実には、もう今日は仕事の口は見つからないという諦めもあったことでしょう。
しかし、一筋の希望が消えそうになったその時、ぶどう園の主人がやってきました。昼はとうに過ぎ、すでに夕方の5時であったにもかかわらず、「あなたたちもぶどう園にいきなさい」と、彼らが求め続けていた仕事へと招きました。わずかな時間ですが、ぶどう園で働くことが許されたのです。
そして、一日の働きが終わり、賃金が支払われる時が来ました。驚くべきことに、最後の者に手渡された賃金は、朝から働いていた人々と同様の1デナリオンが支払われたのです。一日の「待つこと」の疲れが拭われる感動と共に、明日への希望も与えられたことでしょう。
主イエスが「天の国は次のようにたとえられる」(20:1)と話し始められた通り、この御言葉には、天の国で神さまが一人ひとりにどのように接されるかが示されています。つまり、ぶどう園の主人と同様に、希望が消えかかりそうなとき、神さまは私たちのところへと来てくださり、私たちの思いを越えた恵みを与えてくださるのです。
ぶどう園の主人が幾度も広場へと出向き、立ち尽くす人々を招いたように、神さまご自身が私たちに声をかけ、御国を耕す働きへと、この教会と共なる歩みへと招いてくださいました。その上、私たちの働きに見合わないほどの恵みを与えてくださいます。
この世界は、いわば神さまのぶどう園です。私たちはその主人によって、ぶどう園での働きに招かれ、呼び集められた者です。神さまは私たちを生かし、宣教と奉仕の働きを託してくださるのです。
私たちは、何時に雇われた労働者でしょうか。夜明け頃から働いている者に自分を重ね合わせて読まれる方もおられるでしょうし、私は5時からだわ、と思う方もおられるでしょう。でも、今こうして教会に来ている私たちは、早くに招かれ、働き始めた人と言う事が出来るのではないでしょうか。
たとえ話の中で、朝から働いた人々は、少ししか仕事をしなかった人々と自分の労働時間と働きの量を比較して優劣をつけ、与えられるであろう糧に、差があることを期待しました。自分たちと、後から来た者たちが、同様の恵みでは、「ふさわしくない」と考えたからです。そして、期待が裏切られた時、雇われたという喜び、糧を与えられる感謝を忘れて、不平を述べる者となってしまいました。
しかし、神さまの願いは唯一つ、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(20:14)というものです。全ての者を憐れまれる神さまの恵みが、ここにあらわされているのです。“働きの量ではなく、たった一つの命・かけがえのない尊い存在として、皆に等しい賃金、すなわち、救いの恵みの約束を与えたい”と、神さまは告げられるのです。
たとえに登場した主人は、朝から働いた者へと、「友よ」と、親しみを込めて呼びかけています。同様に、主が私たちを「友」と呼び、天の国の訪れを証しする働きを託してくださっていることを覚えたいのです。
主人は、初めに労働者たちに告げています。「ふさわしい賃金を払ってやろう」(20:4)と。この「ふさわしい」とは、どういうことでしょうか。聖書が「ふさわしい」と語るとき、そこには人の思いも姿勢も含まれず、ただ神さまの御心だけが「ふさわしさ」を決定するのです。
夕方から働いた者たちが、一デナリオンを過分であると言って辞退したとしても、御心は果たされたであろうし、果たされねばなりませんでした。同様に、朝から働いた者たちが不平を述べたとしても、必ず主の御心は果たされるのです。「ふさわしさ」の決定は、雇われた者たちや私たち人間のすることではなく、自ら招かれた主人の「仕事」だからです。つまり、私たち全ての者を等しく招かれることが、愛の神さまにふさわしいことであることを覚えたいのです。
キリストの友とされ、主の道を歩み始めた私たちは、既に天の国を生きる者とされています。この約束を知る者として、奉仕が与えられていることを感謝しつつ、歩んでいきたい。これから招かれる方々を主と共に喜んで迎え、主の御言葉と聖霊によって生かされている私たちと同じ神さまの恵みが用意されていることを伝え、分かち合う者でありたいと心より願います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン