食卓のパン
マタイによる福音書15章21-28節
15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
ミステリィ作家の森博嗣氏は、小説の中で次のように語っています。
「すべてがわかってしまったら、なにも試すことができません。なにも試さなければ、新しいことはなにも起こらない。神が試さなければ、この世はなかったでしょう。人も、わからないことの答を知りたいと思って追い求める。そこに、優しさや、懐かしさ、そして、喜び、楽しみが生まれるのです」(『四季 冬』, MORI Hiroshi, 2006, P.188-189)。
聖書には、旧約の時代から主イエスの歩みに至るまで、神さまが如何に行動され、どのような想いをもって人と関わられたのかが記されています。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創1:27)と語られている通り、そこには私たちが試行錯誤しつつ歩むように、神さまもまた苦悩されながら世界を造り上げられたことを、私たちは知らされるのです。特に、ノアの箱舟において、御自身の審きを悔やまれ、“もうこのようなことはしない”と虹をかけて約束された神さまの姿はとても印象的です。
神さまが試行錯誤され、最も良い道を備えて下さったからこそ、その御業を伝える聖書は時代を超えて読まれ、現在に至るまで多くの人を支え続けているのではないでしょうか。本日語られました御言葉から、主イエスが御自身の使命をその目的に迫り、より広く発展なさる出来事について聞いてまいりましょう。
「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」(マタイ15:21-25)。
14章の冒頭で、洗礼者ヨハネが処刑された報告を受けても、集まった人々を癒し、その後にはそこにいた約2万人を満腹にさせられた主イエス。その後、強い風に漕ぎ悩む弟子たちのもとへと湖の上を歩いて向かわれた主イエスは、対岸についてからもゲネサレトという土地で病人を癒されました。休みなく人々と関わられていたため、休もうとされたのでしょうか。主イエス一行は、ティルスとシドンの地方である外国の地へと行かれました。
すると、一人の外国人である女性が主イエスのもとへとやってきたのです。彼女は“悪霊に取りつかれて苦しむ娘を助けてください”と願いました。けれども、主イエスは外国人の女性には何も答えられません。弟子たちはといえば、叫びながら後をついてくる女性を追い払うよう、主イエスに訴えています。
ここには主イエスの歩まれた時代の様子が深く関わっているのです。当時は、父権制社会であり、家の父が妻や子ども、奴隷、家畜、土地など、すべての所有権を持っていると考えられていました。そのような中で、道を歩く男性に話しかけることすら女性には許されていませんでした。
主イエスの前に現れた一人の女性のとった行動は、弟子たちからすれば、主イエスに恥をかかせるものでした。ましてや、ユダヤ人は外国の人々を敬遠していたのですから、とにかく追い払いたかったのでしょう。弟子たちが怒っていた理由はここにありました。
一方、主イエスも外国の女性に何も言ってはおられません。まるで相手にしていないかのようです。弟子たちと同様に、主イエスもまた社会の常識に囚われつつ、彼女を避けようとしたのでしょうか。決して、そうではないようです。
「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(マタイ15:24-28)。
主イエスは、女性に対して、“私はまずユダヤ人へと神さまの恵みを示すために遣わされた”と、御自身の使命について語っておられます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という御言葉から分かるように、ユダヤ人を子ども、外国人を小犬として明確に区別しておられます。ユダヤの人々のもとで御言葉を語り、癒しの御業を行ったとしても、共に居たはずの弟子たちですら、主イエスの御心に気づいてはいませんでした。そのような状況にあって、主イエスは“外国人に理解されるわけがない”と期待しておられなかったかもしれません。
しかし、どれだけ突き放されようとも、外国の女性は主イエスによる救いにしがみつき、信頼し続けたのです。彼女の「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(マタイ15:27)との言葉が、神さまへの信頼の大きさを映し出していました。
子どもは、食卓でパンを食べる時、気をつけていてもパン屑を落としてしまいますが、その落ちたパン屑が人を満腹にするかと言われれば、決して満たされるほどの量でないことを私たちは知っています。
外国の女性は、悪霊に取りつかれた娘の癒しを願っていました。つまり、“食卓からこぼれ落ちるパン屑ほどの恵みであっても、わたしの娘が救われるには十分であることを承知しています”との思いが、彼女の言葉から伝わってくるのです。子どもを救いたいと願う親の熱意と、シリアの土地の神では癒されなかった落胆と、主イエスに最後の望みを置く信仰が、主イエスを思い直させたのです。主イエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と言われ、娘は癒されました。主イエスを十字架に架けることよってユダヤ人が主による救いを放棄し、それによって主の救いが万人のものになる前に、この外国の女性は自らの主がどなたであるのかを告白することにより、近い将来に備えられていた救いの先取りに与ったのです。
聖書では、“救いは神さまによって与えられるものである”と記されていますし、人が何かを付け足さなくとも、“主イエスの十字架の死と復活によって、救いや恵みは既に完成したのだ”とも言われています。聖書を読んでいたはずのファリサイ派や律法学者たちは、自らの信仰や業績を誇って主イエスを十字架へと追いやりました。そこで、教会では“人の行為には目を向けず、神さまの御心のみを大切にするように”と語り継がれているのです。
しかし、“人が誰かのため為す執り成しの祈りを、神さまは決して無駄にはならならず、御心を翻して聞き届けられることがある”ということを、本日の信仰を褒められた女性を通して、私たちは知らされるのです。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(マタイ15:27)。
私たちもまた、パン屑ほどの恵みであろうとも、神さまの御手からいただくときには、十分に満たされるだけでなく、溢れるほど豊かなものとなることを信じています。そうであるならば、最後まで主イエスにしがみつき、救いと恵みとを祈り続けたい。祈りを通して、神さまへと訴え続けたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン