主は重荷を担われる
マタイによる福音書11章25-30節
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
7月に入ってから、“主イエスが弟子たちの中から12人の使徒を選ばれ、打ちひしがれている人々のもとへと送り出す出来事”を、聖書から語られてまいりました。
12人の使徒の中には、徴税人や熱心党(ユダヤ人の過激派)、漁師など、あらゆる立場の人々がいました。時に誰が偉いかと互いにいがみ合い、主イエスの歩みに疑問を抱いていた彼らへと、主イエスは御自身の働きを任されたのです。相容れない関係にあった人々が主によって結び合わされ、同じ目的のために歩み始めたことに驚かされます。
このとき使徒たちへと語られた内容とは、“旅に出るにあたって何も持って行かず、ただ神さまの御業に出会うこと”、“主御自身が人々に憎まれて十字架にかけられるように、主を信じる弟子たちも人々から(家族からも)憎まれること”、“いかなる困難の中でも、神さまは共に居て支えて下さるのだから、まず、使徒たち自身が小さくされている人々の一員となること”。このように、主イエスは使徒たちへと旅の心得と、これからの困難への対策を教えられたのです。
人々がいかに使徒たちを憎もうとも、神さまの御業は阻まれることなく、使徒たちを通して証しされていき、打ちひしがれる人々へと、主イエスが語られた真の御言葉が伝えられていく。このことこそ、主イエスの喜びであり、神さまの御心なのです。“聖書を研究し、正しく在り続けられる人々のみに独占されていた救いは、今や、最も小さい者に真っ先に告げられる。能力や権威を持つ者にではなく、神さまへと切実に救いを求める人々にこそ与えられる”。神さまの御心に立ち、それまでの常識を打ち崩された主イエスの約束を、私たちは知らされたのです。
さて、本日の御言葉で、主イエスは次のように言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。
主の招きの御言葉です。疲れ、重荷を負いつつ歩む者を御自身のもとへと呼び、安らぎを手渡して下さる方こそ、私たちの主です。
主イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と語られています。「軛」とは一体どういったものか。主イエスの歩まれた時代には、耕運機やトラクターなどといった土を耕すための便利な機械はありませんでした。鍬で畑を作ることが出来ても、広大な大地すべてを耕すことは非常に困難です。ですから、人々は二頭の牛を繋ぎ、道具をひかせて耕していました。木の棒を削り、二頭の牛が離れないように括り付ける道具を「軛」と呼びます。一頭では背負えない重荷でも、二頭ならば引くことが出来、疲れも少なくて済みます。主イエスの御言葉を聞いていた人々が、日常で目にする光景だったことでしょう。
そのことを考えますと、主イエスが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と語られたものの、直後に「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言っておられることに気づかされます。つまり、主イエスは、“重荷を下ろしてしまうばかりではなく、再び背負う時には主イエスと共なる軛を担い、軽くされた荷を負い直すことがあなたがたの安らぎとなる”と言われているのです。
「重荷」という言葉を聞く時、様々なものが思い起こされます。人生を歩む中で、私たちはたくさんの人々と出会い、経験を積んでまいります。後悔や背負いきれない過去、放棄できない責任や関わりを避けられない人など、人によって重荷の内容は異なります。聖書を通して語られる神さまは、私たち一人ひとりが“神さまと共にあって今を生きる”ことを望んでおられます。ですから、私たちの足を重くし、立ち上がれないまでに打ちのめす重荷を、神さまが必ず共に背負って下さると、私は信じています。実際に、私はそのような神さまの姿によって支えられ、ここまで歩んでくることができました。その意味で考えますと、“主イエスが共に私の苦しみを担い支えて下さるのだから、安心しなさい”と語られているようにも響きます。
しかし、本日は、主イエスが語られる重荷はまた、神さまから人それぞれに託された「務め」でもあると受け取りたいのです。
先週までの礼拝の中で触れてまいりましたが、使徒たちの旅は打ちひしがれる人々のもとへと向かい、御言葉と主の御業を手渡すためでした。小さくされていた人々が、宗教的指導者たちによって教えられていたのは、“律法を完全に守る者は救われる”、“いけにえとなる動物を献げれば、今までの罪の汚れは洗い流される”というものです。しかも、この償いは繰り返し行うべきことでした。しかし、掟を守ることのできない、いけにえとする動物を献げることのできない人々にとって、この「律法(神さまに従う者の務め)」はいかに重荷であったことでしょうか。宗教者たちから負わされたこの重荷が、人々を、特に苦しい生活を強いられる人々を神さまから遠ざけていました。
そこで、小さくされた人々を一層苦しめる重荷を見て、主イエスは言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。
主イエスの背負われる「重荷(務め)」とは、神さまの御心に立ち、神さまと共に生きることです。“これまでの重荷は下ろし、これからは共に軛を担い合って、安らぎを得よう”と、主イエスは招かれるのです。負わされる荷は重くとも、主と共に自ら負い直す荷は軽いのです。
守り切れない律法の重みに潰されようとも、それは誰にも助けを求めることもできない個々人に負わされたものでした。何よりも、神さまの御前で悔い改め、神さまから赦される機会を奪われていることが、小さくされていた人々をより深く悲しませていたことでしょう。
しかし、主イエスは、“今背負う律法を下ろし、主イエスと共に神さまからの福音を担って行こう”とも教えられます。ユダヤ社会の端へと追いやられた人々が、神さまの御業を果たす者となるように招かれたのです。救いは掴み取るものとしてではなく、主イエスの招きを通して、救いの方から近づいてくる。そこに、一時的ではない、真の安らぎがありました。
礼拝の中で与えられる御言葉において、“神さまの御心を果たすように”との主イエスの招きが、日々私たちへと語られていますし、私たち自身も主に従って、神さまの御業を証ししていきたいと願っています。けれどもその時、主イエスが私たち一人ひとりに務めを託されるばかりではなく、私たちのその重荷を共に担って下さっていることを、いつも思い起こしたいのです。
軛で繋がれた二頭の牛は、歩幅があっていなければ上手く役割を果たせないと言います。共に居て下さる主イエスは、私たちが疲れた時にはその歩幅に合わせて歩んでくだる。いつでも、苦しむ者の中でも、最も歩みの遅い人に合わせて歩んでくださいます。それゆえ、主イエスの軛は負い易い。私たちの人生の片棒を担いでくださる主と共に背負い直す荷は軽いのです。今この時も、また死の先にあっても主が私たちと共に霊による人生という務めを担って下さるのですから、もはや恐れはありません。誰も奪うことのできない安心が、主のもとにはあるのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン