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平和を伝える

マタイによる福音書9章35節-10章15節

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先ほどお読みしました福音書の日課には、主イエスが12人の使徒を選ばれ、打ちひしがれる人々のもとへと派遣された出来事が記されていました。

マタイ福音書の4章には、“ガリラヤで伝道を始めた主イエスに、大勢の群衆が従った”と書かれていましたが、主イエスは彼らを率いて山に登られ、御言葉を語られました。この「山上の説教」と呼ばれる出来事が7章まで続きます。聖書を辿りますと、山上の説教以降、本日の9章35節からの御言葉に至るまで、主イエスはあらゆる人々のもとへと向かって病気を癒し、悪霊を追い出されたことが分かります。

寝る暇も惜しみながら癒しの御手を差し伸べ続けられたであろう主イエスをもってしても、依然として救いを求める人々がたくさんいたのです。

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:35,36)。

主イエスは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」というのです。日本人として「憐れみ」という言葉を聴きますと、「かわいそうだから、施す」という連想をしてしまいますが、聖書の「憐れみ(スプラングニゾマイ)」という言葉は、「断腸の思い」を意味します。主イエスにとって、人々が苦しむ姿は決して他人ごとではなく、身を裂かれ、骨身が削られるほどの痛みであったことを知らされるのです。

飼い主のいない羊。野獣や強盗の脅威にさらされ、食事となる草を自ら探すことのできない羊が生き抜く確率は極めて低い。主イエスは、打ちひしがれる人々を、そのような羊に例えられたのです。

「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(マタイ9:37,38)。

主イエスは、飼い主のいない羊のように路頭に迷う人々の姿を見て、非常に激しい苦しみを覚えられましたが、同時に、彼らは神さまにとっての実りでもありました。“神さまが救われ、天の国に招かれることを例える「収穫」があるのに、その実りを収穫するための働き手が少ない”と言われ、主イエスは12人の使徒を選び、“それぞれ、打ちひしがれている人々のもとへと足を運ぶように”と使命を与えられました。

私は、この「打ちひしがれている」という言葉や、旧約聖書での表現「くずおれる」という言葉を見過ごせません。慰めるすべもないほど失望している人は痛々しく、何とかしたいと願う者だからです。主イエスが、打ちひしがれている人々に目を留め、どのように癒し、救われるのかを常に注目しています。

12人の使徒たちに命じられたこととは、「訪ね」「教え」「伝え」「いやし」「憐れむ」ことでした。すべて、主イエスがこれまで出会った人々になさってきた御業です。そのために必要な“悪霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す力”を、主イエスは使徒たちに与えられたのです。

主イエスの歩まれた時代には、悪霊に取りつかれたと言われる者や、伝染性の病気を患った人は、祭司によって「汚れている」との宣告を受け、町の外へと排除されていました。病気が治り、祭司から「清い」と宣言されるまで、彼らは人前に出ることすら許されない立場に置かれてしまったのです。生きる者としての当然の権利が奪われ、人々から身を隠さなければならない生活には、耐え難い痛みが伴ったに違いありません。主イエスが痛みを覚えて言われる「イスラエルの家の失われた羊」とは、このような打ちひしがれる人々のことです。真に救いと解放を願う人々へと「訪ね」「教え」「伝え」「いやし」「憐れむ」ことこそ、12人の使徒たちに与えられた重要な使命でした。

「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:7,8)。

神さまからの救いのメッセージは痛みの中でこそ、より一層輝きを増して届きます。だからこそ、真っ先に救われるべき彼らは、すでに収穫の時を迎えた神さまにとっての実りと呼ばれるのです。

さて、主イエスは使徒たちに何も持って行かないようにと言われました。お金、袋、二枚目の下着、履物、杖。いずれも、旅の必需品です。お金が無ければ何も買えませんし、袋がなければ大切なものをしまうこともできません。下着も替えがなければ衣服の汚れが早まりますし、履物がなければ足を痛めてしまいます。特に、荒れ野で獣や強盗に襲われたときに身を守り、足が疲れたときには体を支える杖が無ければ不安です。

それでも、主イエスは使徒たちに何も持たせずに送り出されました。彼らが、物や自分自身の力や備えに頼らず、御力を与え、その足を守ってくださる神さまにすべての信頼を置くためです。行く時も、人と出会うときも、帰るときも、神さまが使徒たちと共におられ、守られる。その通り、後に彼らは使命を果たし、無事帰ってきたのです。神さまが導かれ、その地で神さまの御力が証しされる。彼らの歩みの初めから終わりまで、神さまの御働きがあったことを知らされるのです。

使徒の中には、様々な人がいました。漁師、徴税人、熱心党。先週の礼拝で、私たちは徴税人マタイの召命の出来事を御言葉から知らされました。「徴税人」とは、御存知の通り、支配国であるローマから徴税の権利を買い、同胞であるユダヤ人から税金を集める仕事をしている人です。それに対して、「熱心党」とは、愛国主義であり、支配国ローマへと武力で対抗することもあったようです。本来ならば、相容れない者同士が同じ使命を担い、遣わされていくのです。使徒の一人ひとりに個性があり、歩んできた道も違います。そうでありながらも、主イエスに結び合わされた関係がそこにはありました。しかし、それぞれの持つ才能や特技、負い目や欠けを超えて、彼らは等しく神さまによって“使命が与えられた者とされた”のです。

「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」(マタイ10:12,13)。

私たちもまた、使徒たちと同様に神さまによる救いの収穫のために必要とされ、使命を与えられた者です。私たちの内に語るべき言葉が見当たらなくとも、また、最後まで使命を果たせないように思えたとしても、その道に伴い、必要な備えをして下さる方がおられます。私たちは、神さまからいただいた恵みの数々に突き動かされつつ、御言葉を伝えていきたい。語り終えた後のことは神さまに任せ、キリストの教会を信頼して新たな仲間が加えられる時を待ちたいのです。

「神の国は近づいた」との主イエスの御言葉の実現に、私たち一人ひとりの命が繋がれています。そこに神さまの喜びがあることが、私たちの喜びでもあるのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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