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立ち止まる

  • jelcnogata
  • Jun 28, 2014
  • 9 min read

マタイによる福音書9章9-13節

9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日の聖書では、“立ち止まる”という行動から示される主イエスの深い愛と、徴税人マタイが弟子となる決断のきっかけとなった出来事が、語られています。そこから、「憐れみ」とはどのようなものであるかを、私たちは聴いて行きたいのです。

本日登場いたしますマタイは、徴税人でした。徴税人は、ローマから膨大なお金で徴税の権利を買い、その権利をもって、町の人々からはローマに支払う税金を、旅人には通行税などの回収することを生業としていたのです。その日、マタイは収税所に座っておりました。遊んでいたのでも、暇を持て余していたのでもなく、普段と同じように仕事をしていたのだと思われます。そこへ、主イエスと弟子たち、それに彼らの後に続く人々が、町へと入って来る様子を、マタイは興味をもって眺めていたことでしょう。

しかし、彼にとって無関係に通り過ぎる話ではありませんでした。その群集を引き連れていたであろう噂の人イエスは、マタイの前で立ち止まり、なんと徴税人であるマタイに「わたしに従いなさい」(マタイ9:9)と声をかけられたのです。変化など起こりえない徴税人としての日常生活に、突如関わってこられた主イエスからの弟子として招こうとする呼びかけに、マタイはすぐに立ち上がり応えています。

マタイを弟子とした後、主イエスは、彼の家で食事をされます。そこにはマタイと、多くの徴税人や罪人が、共に食卓を囲んでいました。別の聖書箇所には、主イエスがファリサイ派の人と食事をしているのを、他の人が眺めていた場面が記されていますが、この時の食事会でも、話題の人であるイエスを、人々は見に来ていました。その中に、ファリサイ派の人々も居たのです。

神さまに従う者・聖なる者として居るべきだと考えていたファリサイ派の人々にとって、ユダヤ教によって宗教的な意味で罪人と定められていた人や、異教徒と関係する徴税人と交わることは、避けるべきことでした。主イエスが噂となっている人であっただけに、徴税人や罪人と食事を共にすることは、ファリサイ派の人々にとって、受け入れ難いことでした。そのため、彼らは「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マタイ9:11)と弟子たちに問うたのです。

口を閉ざす弟子たちに変わって主イエスは答えます。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12,13)。

ここに、罪人と食事をするイエスを非難する人々と、主イエスの歩みとは相容れないものであることが、明確にあらわされているのです。

これまでの歩みで既に弟子となった4人の漁師は、所有していたすべての物を置き、これからの人生をかけて主イエスに従いました。その歩みの中で、主イエスが教えられる、それまで聴いたことのない数々の権威ある教えに驚いたのです。それに加え、人々の間に噂は広がり、多くの者が後に従ってくるようになったことで、弟子たちの気持ちは、いよいよ、高まっていたことでしょう。“きっと、この方こそ、我々ユダヤ人の国を支配国から奪還し、王となられる方だ”と。

しかし、その様な気持ち高まる中で、イエスはマタイの前で立ち止まり、初めの弟子たちと同様、この徴税人をも弟子として招かれたのです。

“同胞から利子を取ってはならない”(レビ25:36,37)という掟があったにも拘らず、ローマ帝国の代理として、自分たちの同胞であるユダヤ人から、はじめに投資した分の回収として、規定の額に上乗せし、税金を請求する人も居たのですから、それこそ、弟子たちは徴税人に対して、耐え難いほどの嫌悪感があったことでしょう。

そういった思いを抱えつつも、主イエスに従って“できれば避けたい徴税人や罪人と共に食事の席につかざるをえなかった”弟子たちへと、ファリサイ派の人々は「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マタイ9:11)と問うたのです。ファリサイ派の人々と同様に、主イエスの行動に疑問を抱いていた弟子たちは、その問いに答えられるはずもなく、ただ主イエスに注目するばかりです。

しかし、たとえ弟子たちにとって突拍子もない気まぐれのように、主イエスがマタイを招いたように感じたとしても、そこに考えが無ければ、“立ち止まる”という行動は起こらないのです。ここに、主イエスの御心が現されていることを知らされます。

ここで注目したいのは、“徴税人マタイ(マタイ福音書以外での名はレビ)が5人目の弟子となった”ということです。ヨハネを除く3つの福音書では、12人いる弟子の内、最初の5人の召命の出来事までしか書いていないのです。はじめに弟子とされた4人は、漁師でした。しかし、5人目のマタイは、罪人と等しい者とされていた徴税人なのです。この徴税人の召命こそが、もっとも重要であり、これを記録し、伝えることに意味があったのでしょう。

聖書には、主イエスの呼びかけ対して、マタイが「すぐに立ち上がった」(マタイ9:9)と記されています。読み飛ばしてしまいそうなほど簡潔に書かれていますが、何事においても「立ち上がる」ためには、心の準備が必要なのです。

もし従った後に、急に主イエスが居なくなったとしたら、漁師であれば魚を取る技術があるし、残してきた家族に受け入れてもらえるかもしれません。しかし、マタイがローマから高額を支払い手に入れた徴税権は、一度放棄してしまえば、取り戻すためには再度買わなければならず、そのような裕福さは、もうすべてを放棄したマタイにはありませんでした。従うということは、生活の、人生の全てを捨てる覚悟をもって、決断する必要があったのです。

会ったばかりの人に、全てを捨てて従っていく決断をさせた理由は、一体どのようなものであったのでしょうか。徴税人マタイの置かれていた状況を、考えてみたいのです。

徴税人マタイは、徴税という仕事上の権限で人を立ち止まらせることはできたし、それが彼の仕事でした。ただ、日常的には納税の要件がない限りマタイの前に立ち止まる人はおらず、ましてや声をかけて来る者など居なかったと思われます。マタイ自身も、気楽に声を掛け合おうにも、仕事が徴税人である限り、それは叶わない願いであることは承知でした。そして、職務は果たさなければならないのです。

しかし、皆が通り過ぎていく中で、マタイの前に立ち止まり、主イエスは声をかけられたのです。徴税人として生きてきる限り、これまで徴税人仲間以外は声をかけてくる者などいなかったでしょうし、これからも居ないことをマタイは誰よりも知っていました。ただ、そこに存在しないかのように通り過ぎられる人生を生きてきたマタイだからこそ、イエスが自分の前で立ち止まったことは、非常に大きな衝撃となったであろうことがうかがえます。今しかない、これが最初で最後のチャンスだと感じ取ったことでしょう。マタイはその時を逃しませんでした。すぐに立ち上がり、イエスに従うのです。

自分の前で立ち止まる人など居ない人生を過ごしてきたマタイにとって、“立ち止まられる驚き”と、“人とのふれあいがもたらす心の底から湧き上がる喜び”が、彼を立ち上がらせたのだと思います。だからこそ、イエスの呼びかけに応じて、今までとは違う生き方へと一歩を踏み出したいと願い、主イエスに従ったのではないか。人に喜ばれる生き方が出来ることは、本当に嬉しいことです。全てを捨てて従ったマタイの召命は、他の弟子たちに優るとも劣らない、衝撃と感動の出来事となっています。

主イエスは、宗教的な意味で罪人と等しい者であり、避けられている徴税人と承知の上で、マタイの前にあえて立ち止まり、弟子となるように招かれました。徴税人を弟子とされたということは、これ以後、主イエスも徴税人や罪人と同じ者として見られることになります。

主イエスがマタイを招かれた出来事は、徴税人と共に歩み、共に食べ、共に眠るということを、生涯全うされることの決意であり、そして、やがて来たるべき神の国の宴会においても、徴税人は共に居るであろうという、徴税人にとっては救いの先取りでありました。

主イエスがこれほどの覚悟と確信と熱意をもって、彼の前で立ち止まられたことを、私たちは覚えておきたいのです。

他の人たちからすれば、マタイと同じ罪人としての括りで見られることが、とても我慢ならないことであったとしても、イエスにとっては、罪人として人々から見られることへの恐れはありませんでした。ただ罪人とされていたマタイが、共に歩む者となったことを、イエスは喜ばれたのです。

主イエスは4人の弟子たちと共に、立ち止まりました。しかし、歩き出すときには6人となったのです。これこそ、憐れみがもたらす出来事なのです。

主イエスは、マタイの前に立ち止まられたように、私たち一人一人の前にも立ち止まって下さいます。私たちが神さまを選んだのではなく、この広い世界の中に溢れる多くの人の中から、神さまがあなたを、また私を選んでくださったのです。そして、私たちもイエスの歩みの一員として招かれ、本日も、この礼拝に集うことができたのです。

現代、私たちは人々と通り過ぎることの多い日常の中で、“誰かの前で立ち止まる”ことこそ、「憐れみの実践」、主イエスが求める愛の業であることを、主イエスの姿から示されました。主イエスから憐れみを受けた私たちは、誰の前に立ち止まるのでしょうか。これからも、多くの方と出会い、多くの人の前で私たちは立ち止まってゆくことでしょう。その際、一人で立ち止まったとしても、歩み出すときには二人となって、歩んで行きたいと願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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