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主という土台

マタイによる福音書7章15-29節

◆実によって木を知る 7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」 ◆あなたたちのことは知らない 7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 ◆家と土台 7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日より、私たちは聖霊降臨後の主日をむかえました。主イエスの復活と昇天、後に弟子たち一人ひとりへと聖霊が遣わされたことを通して、神さまは御業を完成されました。私たちには、この完成された神さまの御業を伝える使命が与えられているのです。主の弟子たちとして立てられた私たちが御言葉をより深く味わい、神さまの御心を知らされるために、1年で最も長い「聖霊降臨後」の主日が備えられています。そのため、聖壇には成長や豊かさを象徴する緑色の布がかけられているのです。

さて、旅を始められた主イエスは、真っ先に外国の小都市に挟まれながら細々と生活していたガリラヤの人々のもとへと向かわれました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった」(マタイ4:23,24)と記されているように、苦しみを背負う多くの人々が主イエスのもとへとやってきました。

そこで主イエスは、集まった大勢の人々を率いて山へと登られ、御言葉を語られたのです。教会では、「山上の説教」と呼ばれる場面です。本日の御言葉は、マタイ福音書の5章から7章に記される「山上の説教」の中でも、最後に記されています。

福音書の日課には三つの小見出しがありました。「実によって木を知る」、「あなたたちのことは知らない」、「家と土台」というものです。その通り、三つの異なる話が語られているのです。

「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。……このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(マタイ7:18,20)。

“良い木には良い実がなり、悪い木には悪い実がなる”。ここで言わんとしていることは、“人の行いにこそ、その人の実りが現れる”ということです。つまり、神さまの御心と愛を現す行為こそ、良い木である証拠であるというのです。

良い行いは誰でも果たすことができます。けれども、神さまの御心を果たすためには、御言葉に立ち、その愛を知らなければならないのです。一つ目の話では、“善意によって行動する者と、神さまの御心を果たす者との違いを知るように”と主イエスは呼びかけておられるのです。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタイ7:21-23)。

二つ目の話では、“心から神さまに信頼し、良い業を行ったとしても、神さまの御心から離れているならば無意味である”と、主イエスは言われています。神さまは、人の心を込めた行いではなく、御自身の御心を果たすことを求めておられるというのです。

「心を込めた良い行い」ということについて、ここで少し考えてみたいと思います。新約聖書には、「ファリサイ派」や「律法学者」と呼ばれる人々がしばしば登場しています。彼らは、神さまから認めてもらおうと、真剣に聖書を学び、必死で律法を犯さないようにしていました。決して手を抜くことはせず、“正しく在ろう”と努力していたのです。そのため、彼らの多くは、罪を犯さないために、最も罪を犯す機会となる“人との関わりを避ける”という仕方で、律法を守っていると考えていました。そして、「私は律法に照らして神さまの前で正しい者として生きている!」と自負し、人に対して「罪を犯すな。罪を犯すお前は救われない」と呼びかけていたのです。

しかし、ファリサイ派の人々は、罪を遠ざけて生活していたものの、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)との神さまの御言葉に従った愛の行為はせず、律法を守ることや自分が救われることばかりに気を取られ、“自分なりの熱心な信仰”を土台に据えて生きていたのです。そのため、主イエスからの“愛を行おう”という呼びかけには従うことができず、人に対して愛を行うところまでには至らなかったのです。

人は誰しもが、熱心であればあるほど、あるいは行動力に溢れていればいるほど、ファリサイ派の人々のように、個人的な信仰の歩みに満足しかねない危うい側面を持っていることに気づかされます。だからこそ、“神さまを心から愛し、心を込めてよい行いをしているだけではいけない”と主イエスは言われるのです。では、私たちは何をすれば神さまに認められ、良い実りを実らせることができるのでしょうか。そこに答えは、見つからないのです。

私の善意、私の好意は、いつまで経っても“私にとっての良い実”に過ぎません。ファリサイ派の視点は、ここに留まり続けるのです。そうではなく、私の歩み、私たちの歩み、人々とのつながりに御言葉が現わされることに、注目したいのです。

私たちの良い行いや良い実という使命から視点を変えて、天の父の御心の現れについて見つめてみます。

旧約聖書に、「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる」(エゼキエル36:23)とあります。さらに続けて、

「わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる」(36:32)と告げられています。

私たちに信仰を起こしてくださったのは、父なる神さまであり、主イエスです。“私たちの内に信仰が起こされている”のは、神さまの御業なのです。つまり、私たち自身が神さまにとっての良い実であることを知らされるのです。

私たちが確かに御心を行えるかどうかは定かなことではありませんが、すでに神さまの御業が私たちに現れ、神さまに栄光を帰していると、この御言葉は教えてくれています。

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ7:24,25)。

私たちには、揺るぎない御言葉という土台が用意されています。主の御言葉は決して朽ちることはなく、私たちを支え続けて下さるのです。

神さまは、人を憐れみ、慈しみ、赦し、救うことを主イエスにおいて果たされました。この福音を信じる、この私たちの姿に御心は現れ、すでに証しされていることを信じます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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