わが神よ
- jelcnogata
- Apr 12, 2014
- 7 min read
マタイによる福音書26章1節ー27章66節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の御言葉において、私たちは“主イエスの受難”の出来事を聴きました。なぜ、主イエスが十字架にかけられることとなったのでしょうか。ユダヤ教の権威ある者たちにとっての決定的な理由とは、“神さまを冒涜したから”であると聖書は伝えています。
「3年」。30歳で人々の前に現れた主イエスが行動を起こされてから、その歩みを終えられるまでの期間です。この3年間に、主イエスはイスラエルの地を歩まれ、人々と出会って行かれました。どのような人と出会って行かれたのか。たとえば、旧約聖書に記される約束や掟を守れずに“罪人”と呼ばれていた人々や、病気となったことで宗教的に“汚れている”と宣言された人々。また、神さまの救いの枠に入っていないと言われていた外国の人々でした。
現在の日本ではあまりイメージしにくいかもしれませんが、当時のユダヤやガリラヤという聖書の舞台では、“宗教的に罪人と宣言される”ということが、社会的な立場も失わせるほどの力をもっていました。つまり、罪人と呼ばれていた人々や病人、外国人などはユダヤ人の社会から排除されたのです。中には、追い出された者が村と村の間に集まって住んでいたようですが、人々は彼らを避け、訪れることはほとんどなかったようです。罪人と呼ばれる人々の中でも、生きていくために掟をどうしてもまもれない者もいたでしょうし、病人も好きで病気にかかったわけでもありません。けれども、宗教的指導者たちは、「出来る者と出来ない者」、「健康な者と病気の者」、「神さまに愛される者と神さまから見放された者」といった差別を、聖書の掟を根拠にして行っていたのです。
聖書は主イエスについて“神さまから遣わされた者(救い主)”だと語ります。その主が、宗教的に罪人とされた人々、差別される者たちへと出会って行かれたのです。“聖書の御言葉を誤解し、人が人の上に立って階級をつける。権力によって、一人の人生を踏みつぶす”。それらが決して神さまの想い・御心ではないことを告げるために、「一人ひとりが神さまに愛され、今生かされている」という良い知らせ(福音)を告げるために、主イエスは人々と出会って行かれたのです。福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の至る所に、主イエスがどのように歩まれたかが記されています。この主イエスの歩みを、その御言葉を、“神さまを冒涜している”などと、どうして思えるのでしょうか。
「うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。……父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように』」(マタイ36:39,42)。
これは、ゲッセマネの園において、主イエスが苦しみもだえながら神さまへと祈った御言葉です。“神さまの御前でも、人々の前でも恥じるような歩みをしてこなかった”ということも、主イエス御自身が最も知っておられたはずです。しかし、主イエスは、人々が捕えに来る以前から「人の子は十字架につけられるために引き渡される」(マタイ26:2)と弟子たちへと語っていた通りに、「あなたの御心が行われますように」(マタイ26:42)と、神さまが主イエスに備えられた道を引き受ける覚悟をされておられました。人々に“神さまを冒涜する者”と呼ばれ、十字架にかけられるまで、主イエスが沈黙されていた理由がここにあります。“自らの願いではなく、神さまの想いが実現するように”。私たちは、全ての苦難をこの一点において引き受けられた主イエスの覚悟と熱意を、この受難主日に覚えたいのです。
人間は皆、弱さをもっているはずです。生きている限り、すなわち人と関わり続ける限り、罪を犯すことも、人を傷つけることも避けられない弱さを持っています。努力して気をつけていても、ふとした瞬間に失敗することがありますし、気を張り詰め続けるならば疲れを感じることは避けられません。
主イエスを十字架につけるよう企んだ宗教的指導者たちが、掟を守り清く生きているつもりでいたとしても、他の人々が皆同様に、強く在り続けることはできません。ですから、能力のある者が清いと言われ、守れない人々へと罪人のレッテルを貼り付け、弱い立場の者たちから神さまの存在を遠ざけることがあってはならないのです。主イエスが人々の前に現れた時、宗教的指導者たちはどのように反応したか。“これまで築き上げてきた権威と秩序を脅かす者が現れた。正しく聖書を理解している私たちのルールを守らないならば、イエスという人物は間違っている。だからすぐにでも排除しなくてはならない”。彼らもまた、自分たちを守ろうとする弱さを持つ一人ひとりに違いありません。
主イエスを売り渡したユダは主イエスと共に死のうとも従うと言いつつも、また、鶏が鳴くまでに3度「そんな人は知らない」(マタイ26:74)と言い放って逃げ去ったペトロも。そして、扇動されてバラバを釈放し、主イエスを「十字架につけろ」(マタイ27:22)と叫んだ民衆も、同じように弱さを抱える人の姿に他なりません。主イエスの受難の現実は、人々が唾を吐きかけ、殴りつけ、鞭打ち、死刑の中でも最も過酷な十字架刑を背負わせています。このように人の側から見れば、主イエスを十字架にかけたのは神さまの御心だけでは済まされない、明らかに人の弱さが招いた結果でもありました。
しかし、それでも主イエスは無言ですべてを引き受け、十字架にかかって行かれます。“罪を持つ者を審く”のではなく、“全てを承知した上で赦す”ために主イエスはこの世へと来てくださり、その命を代償として、神さまと人との関係を再び結び合わせてくださったのです。
「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイ27:46)。
十字架の上で命が尽きる直前に語られた主イエスの御言葉です。絶望に満ちているかのように響くこの叫びは、実は“詩編22編”の冒頭の一節なのです。詩に見る上の句と下の句のように、詩編もまた初めと終わりの言葉は一対をなすものでありました。そして、主イエスの十字架を見守るユダヤの人々は、誰もがこの詩編の終わりまで記憶していたのです。22編を最後まで読んでみますと、次のように記されています。
「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう」(詩編22:25-32)。
この世に神の子として生まれ、人としての命が失われるその瞬間まで、主イエスは神さまへの信頼を失うことなく生き抜かれました。救いを告げた人々から十字架にかけられた主イエスの悲しみがどれほど深くとも、神さまという光は消えることはありませんでした。むしろ、神さまは最後の祈りまで聞き届けてくださったのです。 教会に集い、御言葉に生かされる私たちもまた、主イエスを十字架へとかけた人々と変わりない弱さを持つ者です。
しかし、神さまは私たちのすべての歩みを、さらに内に秘めた思いまで御存知の上で赦し、命を与えてくださっています。主イエスの十字架によって、私たちは今も生かされているのです。そのように、主イエスの歩みとその受難の出来事を知らされる度、主イエスがくださった恵みの重さを私たちは知らされていきます。“主イエスの犠牲の上に、今の私たちがある”と知らされたとしても重みにつぶされることなく、むしろ賛美の声をあげ、感謝を祈ることができるのは何故でしょうか。“十字架の先には、復活があったから”です。人の犠牲の上に立って悠々と生きていくことはできません。
しかし、主イエスは復活され、今も生きて私たちと共に居て下さるのです。私たちは主イエスの死という犠牲の上に立って生かされているだけではありません。復活の主と共に生きているのです。だからこそ、私たち自身が、そして、愛する人たちが今神さまに大切にされ、生かされていることを喜びたい。主イエスがしてくださったように、赦された者として人を赦し、人と共に歩んで行きたいのです。
次週は復活祭(イースター)です。主イエスの復活を記念するこの時に、共に心からの喜びを讃美してまいりましょう。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
Recent Posts
See Allいつも直方教会の「今週の説教」をご覧いただきありがとうございます。 2025年3月16日をもちまして、「今週の説教」の更新を終了いたします。今後はサイトのトップページから牧師の個人YouTubeにアクセスいただき、そちらから説教動画をご覧ください。文字情報での受け取りをご希...
2025年3月15日・16日 四旬節第二主日 福音書 ルカ13:31~35 (新136) 13: 31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行っ...
2025年3月8日・9日 四旬節第一主日 福音書 ルカ4: 1~13 (新107) 4: 1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終...