top of page
Search

神さまは涙する

  • jelcnogata
  • Apr 6, 2014
  • 17 min read

ヨハネによる福音書11章17-53節

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。

11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。

11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。

11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。

11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、

11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。

11:35 イエスは涙を流された。

11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。

11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。

11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。

11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。

11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。

11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。

11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日、私たちに与えられた御言葉には、ベタニアに住むラザロが葬られる場面が記されていました。このラザロにはマルタとマリアという二人の姉妹がいました。ヨハネ福音書には記されてはいませんが、この姉妹と主イエスとの出会いについては、教会ではよく読まれ親しまれています。

「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10:40-42)。

この姉妹が主イエスを家に招き入れた際、マルタばかりが働き、マリアは主イエスのもとに座り話を聴いていたのです。マルタは不服申し立てをしますが、主イエスによって“それぞれに与えられた役割をとってはならない”と諭された出来事です。

ルカ福音書のみに記されるこの出来事では、兄のラザロは登場していません。当時は、おもてなしは家の主人がするものであったようですから、ラザロは以前から病気であったのかもしれません。いずれにしろ、主イエスはベタニアによく行っておられましたから、この姉妹との関係は親密であったと考えられます。

さて、先ほどお読みした御言葉の少し前には、ラザロが息を引き取るに至った経緯が記されています。

「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」(ヨハネ11:1-6)。

マルタとマリアは主イエスへと人を送り、兄ラザロの病気を癒してくださるよう願いました。しかし、主イエスはすぐに向かおうとはさらず、その間にラザロは死を迎えることとなったのです。

「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」(ヨハネ11:17)。

主イエスがラザロのところへ向かったのは、死後4日のことであったと聖書は語ります。死後、人の鼓動は消え、体温が下がり、体は硬直していきます。そして、気温の高い場所であれば腐敗も始まるのです。「4日」とは、目の前に横たわる愛する人が「確実に死を迎えた」という覆せない証明に他なりません。ラザロは仮死状態に陥ったのではなく、確実に息を引き取ったのです。

「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています』」(ヨハネ11:19-22)。

ラザロの死から4日経ったのち、主イエスがベタニアに来られたことを知ったマルタは出迎え、次のように言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(ヨハネ11:22)。

主イエスのこれまで行ってこられた御業によって、“もし間に合われたら、ラザロの病気を癒すことができたでしょうに”と語りましたし、ラザロの死を目の当たりにした後であっても、主イエスへの信頼は失われていません。また、主イエスの「あなたの兄弟は復活する」(11:23)という言葉に対して、マルタは“終末の時(この世の終わり)に、神さまは信仰者を復活させてくださる”と答えていますし、“主イエスの祈りならば神さまが聴いてくださる”と執り成しをも期待していました。

しかし、これほどまでにマルタが厚い信仰をもっていたとしても、「死」は決して超えることのできない壁として、主イエスの力もおよばない場所として、彼女に絶望感をもたらし続けていたのです。

だからこそ、主イエスは痛みの淵に立つマルタへと、次のように語られるのです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:26)。

主イエスは御自身こそ、「復活であり、命である」と語られました。そして、主イエスを信じる者は「死んでも生きる」というのです。マルタにとって、ラザロの死が覆せない現実であったとしても、主イエスはその「死」を越えて主イエスの命があることを教えられたのです。

「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された」(ヨハネ11:32-35)。

マルタとの会話の後、マリアが主イエスのもとへとやってきて、同じように主イエスに訴えて泣きました。一緒にいたユダヤ人たちも泣いていた、とあります。そして、それを見た主イエスも“心に憤りを覚え、涙を流された”というのです。

しかし、私たちはこの後にラザロを復活させた主イエスの姿を知らされています。人々が言うように、“ラザロを救えなかったから”という理由や、“愛するラザロとの別れの辛さから”涙を流されたとは到底思えないのです。

“なぜ、神さまが大切に造られた一人ひとりを、「死」がこれほど深く傷つけるのか。神さまをかき消すほど、人の心を支配しているのか”。「人々を絶望の淵に立たせ、死が猛威をふるっている現実」にこそ、主イエスは憤られ、涙を流されたのではないかと思うのです。

だからこそ、完全に死んだはずのラザロを生き返らせることによって、人々に“神さまの支配は、死の壁をはるかに超えるものである”ことを示されたのです。

「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた」(ヨハネ11:41-44)。

ラザロは、再び神さまによって命を吹き入れられ、生きる者となりました。人々は神さまの圧倒的な力を目の当たりにすることとなったのです。しかし、ラザロが命を与えられて復活したとしても、現代まで生き続けているわけではありません。歳を重ね、他の人と同じように死を迎えたことでしょう。つまり、主イエスの語る“永遠の命”とは、ラザロに与えられた命のことではありません。“真の命”とは、「主イエスと共に在る命」なのです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:26)。

私たちは生きる中で身近な人の死と出会います。そして、いつかは自らの死を迎えます。その中で、死がいかに大きな力をもち、この世界で猛威を振るっているかを知らされるのです。

しかし、主イエスは死よりも更に圧倒的な力を、その恵みを私たちに日々示してくださっています。だからこそ、私たちは信頼して、死を迎えた愛する者を、そして私たち自身をも主の御手に委ねているのではないでしょうか。“主の御許で平安に過ごしているだろう”と召天者を思い起こす事は、死の先をも在り続ける“真の命”を、今すでに私たちが生かされている証しです。

死はゴールではなく通過点であり、その先にも主と共にある命がある。決して消えることのない希望が主によってもたらされたことを覚えつつ、これからの日々を歩んで参りましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン 本日、私たちに与えられた御言葉には、ベタニアに住むラザロが葬られる場面が記されていました。このラザロにはマルタとマリアという二人の姉妹がいました。ヨハネ福音書には記されてはいませんが、この姉妹と主イエスとの出会いについては、教会ではよく読まれ親しまれています。 「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10:40-42)。 この姉妹が主イエスを家に招き入れた際、マルタばかりが働き、マリアは主イエスのもとに座り話を聴いていたのです。マルタは不服申し立てをしますが、主イエスによって“それぞれに与えられた役割をとってはならない”と諭された出来事です。ルカ福音書のみに記されるこの出来事では、兄のラザロは登場していません。当時は、おもてなしは家の主人がするものであったようですから、ラザロは以前から病気であったのかもしれません。いずれにしろ、主イエスはベタニアによく行っておられましたから、この姉妹との関係は親密であったと考えられます。 さて、先ほどお読みした御言葉の少し前には、ラザロが息を引き取るに至った経緯が記されています。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」(ヨハネ11:1-6)。 マルタとマリアは主イエスへと人を送り、兄ラザロの病気を癒してくださるよう願いました。しかし、主イエスはすぐに向かおうとはさらず、その間にラザロは死を迎えることとなったのです。 「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」(ヨハネ11:17)。 主イエスがラザロのところへ向かったのは、死後4日のことであったと聖書は語ります。死後、人の鼓動は消え、体温が下がり、体は硬直していきます。そして、気温の高い場所であれば腐敗も始まるのです。「4日」とは、目の前に横たわる愛する人が「確実に死を迎えた」という覆せない証明に他なりません。ラザロは仮死状態に陥ったのではなく、確実に息を引き取ったのです。 「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています』」(ヨハネ11:19-22)。 ラザロの死から4日経ったのち、主イエスがベタニアに来られたことを知ったマルタは出迎え、次のように言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(ヨハネ11:22)。主イエスのこれまで行ってこられた御業によって、“もし間に合われたら、ラザロの病気を癒すことができたでしょうに”と語りましたし、ラザロの死を目の当たりにした後であっても、主イエスへの信頼は失われていません。また、主イエスの「あなたの兄弟は復活する」(11:23)という言葉に対して、マルタは“終末の時(この世の終わり)に、神さまは信仰者を復活させてくださる”と答えていますし、“主イエスの祈りならば神さまが聴いてくださる”と執り成しをも期待していました。しかし、これほどまでにマルタが厚い信仰をもっていたとしても、「死」は決して超えることのできない壁として、主イエスの力もおよばない場所として、彼女に絶望感をもたらし続けていたのです。だからこそ、主イエスは痛みの淵に立つマルタへと、次のように語られるのです。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:26)。 主イエスは御自身こそ、「復活であり、命である」と語られました。そして、主イエスを信じる者は「死んでも生きる」というのです。マルタにとって、ラザロの死が覆せない現実であったとしても、主イエスはその「死」を越えて主イエスの命があることを教えられたのです。 「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された」(ヨハネ11:32-35)。 マルタとの会話の後、マリアが主イエスのもとへとやってきて、同じように主イエスに訴えて泣きました。一緒にいたユダヤ人たちも泣いていた、とあります。そして、それを見た主イエスも“心に憤りを覚え、涙を流された”というのです。しかし、私たちはこの後にラザロを復活させた主イエスの姿を知らされています。人々が言うように、“ラザロを救えなかったから”という理由や、“愛するラザロとの別れの辛さから”涙を流されたとは到底思えないのです。 “なぜ、神さまが大切に造られた一人ひとりを、「死」がこれほど深く傷つけるのか。神さまをかき消すほど、人の心を支配しているのか”。「人々を絶望の淵に立たせ、死が猛威をふるっている現実」にこそ、主イエスは憤られ、涙を流されたのではないかと思うのです。だからこそ、完全に死んだはずのラザロを生き返らせることによって、人々に“神さまの支配は、死の壁をはるかに超えるものである”ことを示されたのです。 「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた」(ヨハネ11:41-44)。 ラザロは、再び神さまによって命を吹き入れられ、生きる者となりました。人々は神さまの圧倒的な力を目の当たりにすることとなったのです。しかし、ラザロが命を与えられて復活したとしても、現代まで生き続けているわけではありません。歳を重ね、他の人と同じように死を迎えたことでしょう。つまり、主イエスの語る“永遠の命”とは、ラザロに与えられた命のことではありません。“真の命”とは、「主イエスと共に在る命」なのです。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:26)。 私たちは生きる中で身近な人の死と出会います。そして、いつかは自らの死を迎えます。その中で、死がいかに大きな力をもち、この世界で猛威を振るっているかを知らされるのです。しかし、主イエスは死よりも更に圧倒的な力を、その恵みを私たちに日々示してくださっています。だからこそ、私たちは信頼して、死を迎えた愛する者を、そして私たち自身をも主の御手に委ねているのではないでしょうか。“主の御許で平安に過ごしているだろう”と召天者を思い起こす事は、死の先をも在り続ける“真の命”を、今すでに私たちが生かされている証しです。死はゴールではなく通過点であり、その先にも主と共にある命がある。決して消えることのない希望が主によってもたらされたことを覚えつつ、これからの日々を歩んで参りましょう。 望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

Recent Posts

See All
「今週の説教」更新終了のお知らせ

いつも直方教会の「今週の説教」をご覧いただきありがとうございます。 2025年3月16日をもちまして、「今週の説教」の更新を終了いたします。今後はサイトのトップページから牧師の個人YouTubeにアクセスいただき、そちらから説教動画をご覧ください。文字情報での受け取りをご希...

 
 
 
自分の道を進む

2025年3月15日・16日 四旬節第二主日 福音書  ルカ13:31~35 (新136) 13: 31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行っ...

 
 
 
荒れ野の誘惑

2025年3月8日・9日 四旬節第一主日   福音書  ルカ4: 1~13 (新107) 4: 1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終...

 
 
 

日本福音ルーテル直方教会

〒822-0025 福岡県直方市日吉町14-13

☎ 0949-22-5684(日曜日13:30-16:00のみ)

​河川敷駐車場をご利用ください(徒歩1分、無料)

牧師 森下真帆

〒802-0061 福岡県北九州市小倉北区三郎丸1-2-35

☎ 093-921-7715

bottom of page