確かにここに在る
ヨハネによる福音書9章13-25節
9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
9:14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
9:15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
9:18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
9:19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」
9:20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
9:23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の御言葉では、“生まれつき目が見えず、道端に座って物乞いをしていた人が主によって癒され、目が見えるようになった”という出来事から巻き起こる、一連の騒動について語られています。
「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。『あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです』」(ヨハネ9:13-15)。
本来、主イエスによって目が見えるようになった人が驚きと感謝をもって歩み始めるであろう場面で、なぜ人々とファリサイ派の人々は、癒された人を皆の前に引き出してまで“主イエスの罪”を明らかにしようとするのか。そこには、安息日の問題が絡んでいました。
「安息日」とは、6日でこの世界を創造された神さまが、7日目に造られたすべてのものを見て「極めて良かった」(創世記1:31)と語り、休まれたことに由来します。このことから、人々が大切にしていた律法である“十戒”において、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジ20:8)と語られるようになりました。ですから、“神さまへと立ち返るための「安息日」に、仕事や家事をすることは罪深いことである”と言われていたのです。
つまり、主イエスが土をこねて目を開かれた出来事が、“あの人は安息日を守らず、労働を行った”として人々の間で大問題に発展したのです。
「ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』と言う者もいれば、『どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか』と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた」(ヨハネ9:16)。
ファリサイ派と言えば、聖書に記される掟を守り、罪を犯さないことに日々努力を続けていた人々です。罪を犯さないためには、罪を犯す機会となる“人との交流”は極力避けなければなりません。しかし、彼らは律法の指導者でもありましたから、罪を犯す人々を告発することもしばしばあったようです。ここでのファリサイ派の人々の関心は、「主イエスとは一体誰なのか」という問いです。“安息日を守らないことは罪であるが、罪がある者がこのような御業を行うことができるのか”と互いに議論しているのです。
それでも答えはでなかったようで、彼らは目が開かれた人をわざわざ呼び出し、「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」(ヨハネ9:17)と問いただすのです。
「彼は『あの方は預言者です』と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。『この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか』」(ヨハネ9:17-19)。
目が開かれた本人は、主イエスを預言者と表現しています。預言者とは、神さまからの御言葉を取り次ぐ者ですから、この人は“主イエスの癒しは神さまからの力”であると証言することになります。けれども、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(ヨハネ9:22)と記されているように、ファリサイ派の人々は既に主イエスを罪人として定めていました。目が開かれた人がどのように証言しようとも受け入れず、両親まで呼び出して目が見えなかった事実を確かめるほど、徹底的に主イエスという人物を排除しようと考えていたのです。
“会堂から追放される”ことは、当時は“ユダヤ人の社会から追放される”のと等しいことでした。両親はこれを恐れ、目が開かれた人物が息子であることは認めつつも、彼が癒された出来事については本人に問うようにと願いました。
「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです』」(ヨハネ9:24,25)。
神さまの御業を人が捉えきることは到底できませんし、その御姿を見ることもできません。しかし、たとえ有り得ない癒しであり、人々が信じなかったとしても、“目が開かれたことは覆すことのできない事実である”と彼は証言するのです。それまで見えなかった“神さまの御業”が分かる者とされ、目が開かれた者として彼は歩み始めたのです。本日の御言葉の少し前には、次のように記されています。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」(ヨハネ9:1-3)。
主イエスの歩まれた時代、“病気や障がいが罪の結果、負わされるものである”と宗教的な側面から考えられていたようです。ですから、人々はそれらを持つ人々を罪人として社会の隅へと追いやり、場合によっては社会から排除していたことが聖書にも記されています。ですから、「物乞い」をしていた男にとって、見えるようになることは癒しであると共に、罪人としてのレッテルが剥がされ、社会的な立場の回復となるはずです。人が人を罪と定めて排除する姿勢へと、主イエスは癒しの御業によって真っ向から闘われました。
後に、主イエスが癒された男を、ファリサイ派の人々は「『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した」(ヨハネ9:34)と聖書は続けます。主イエスによって剥がされた罪人のレッテルを再び負わせ、排除しようとする人々の姿を知らされるのです。
主イエスが現された御業を神さまからのものとは信じず、安息日を守らなかったことを非難する人々によって、主イエスの死刑が企てられるようになります。ファリサイ派の人々は聖書の掟を自分たちなりに真剣に守り、清く生きようと願う人々でありました。それでも、自分の理解に立つ限り、神さまの御心から離れてしまうのです。それが、人の弱さであるように思います。
しかし、大切に形造られた一人ひとりが、神さまに「極めて良い」と言われている事、そして、主イエスがその神さまの御心を根拠にして、人々と出会って行かれたことを私たちは覚えたいのです。十字架の木と茨の冠が待ち受ける道であると分かっていながらも主イエスが歩み通された神さまの御心を、私たち自身も大切にしていきたいのです。主イエスの復活へと通じる十字架への歩みを思い起こすこの時に、御言葉に信頼し、耳を傾けていきたいと願います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン