願い
マタイによる福音書20章17-28節
20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちにとって「願い」とは何でしょうか。私たちは、主イエスへの信仰によって、あるいは神さまを求めて教会へと集っています。そして、祈りによって神さまに願います。
日本の習慣としても、正月になれば多くの人が初詣に出かけ、受験のシーズンにも合格祈願のため神社にお参りに行き、生活の安全や解決・良い結果を願う姿を見かけます。特に東日本大震災以降、苦難の中におられる方、そしてその様子を知り、痛みを覚える方々によって、状況の改善を祈る願いが日本中に溢れています。このような中で、日本に生きる私たちにとって、教会に通っている方にも、そうでない方にも共通の話題として、「願い」という事柄を身近ものとして捉えることが出来るのではないでしょうか。
本日の聖書の日課において、その「願い」ということについて、主イエスの御言葉から聴いていきたいのです。
本日の箇所は、主イエスの受難予告から始まります。主イエスの話された内容とは、“主イエス御自身がエルサレムに上った時、祭司長や律法学者たちに捕えられ、異邦人たちに引き渡された後、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられる”というものでした。聖書の見出しにありますように、主イエスがこの受難予告を弟子たちに話されるのは三度目で、一度目は16章、二度目は17章に書かれています。三度も同じ話をされたというところからも分かるように、そこには、主イエスが伝えようとされる大きな意味があるのです。その意味を知るために、一度目の受難予告をされた後の、弟子たちとの対話をご一緒に見て参りましょう。
マタイによる福音書16章21節において、主イエスは宣教の歩みの中で初めて弟子たちに、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と打ち明けられました。それまでの道のりで、キリストが人々を癒し、助ける場面を見ていた弟子たちはこの言葉を聴き、大変驚き、困惑したことと思います。なぜなら弟子たちは、目の前にいる主イエスこそ、皆を救うモーセのような偉大な指導者として、また、ダビデのようにイスラエルの王になる方であると期待していたからです。だからこそペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)と主イエスに抗議したのです。誰もが、自分の心から愛する人が苦しむことなど望みません。それに加え、自らの人生を委ねようと思う人に対してならば、尚更強く立ち、先導してほしいという気持ちは大きかったはずです。ペトロは、主イエスを心から愛し、尊敬の念を抱いていましたから、“主が苦しみを受けて十字架の上で殺される”ということを、受け入れることが出来なかったのでしょう。しかし、主イエスは、御自身を愛する弟子の想いを知っておられながらも、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者」(マタイ16:23)と、ペトロを叱ったのです。ここに、「願い」ということに対する、主イエスの理解が語られています。
何故、御自身を愛し、気遣う言葉に、このように厳しい言葉でお答えになられたのか。それは、主イエスの予告した受難の道こそが、「父である神さまの御心」だったからです。ペトロは、自らの願いを主張して、気づかぬ内に、神さまの御心を否定していたのです。それゆえ、“その願いは、違うぞ!”と、“あなたは神を思わず、人間のことを思っている”と主イエスは厳しく教えられたのです。この御言葉は、ペトロだけにではなく、主イエスに従って生きる者すべてに対して語られている御言葉でもあります。
私たちの願いは、誰の為に成されているのでしょうか?主イエスは、父なる神さまを愛するがゆえに、御自身の願いを神さまに訴えるばかりではなく、神さまの御心を聴き、歩まれることを求められました。神が喜ばれることが、主イエスの喜びであったからです。弟子たちも神さまを信じ、神さまに向かい、いつも祈りの中で歩んではいましたが、まず神さまの御心に聴くことはせず、聴いてもらうことばかりを求めていました。神さまの想いと人の想いの間には、これほど大きな溝があるのです。主イエスは神さまと人々の隔たりをつなぐために、この三度の受難予告を通し、弟子たちに「神さまの想い」に耳を傾けることを伝えようとされたのです。これらのことを踏まえた上で、本日の聖書の箇所を読みますと、主イエスが伝えようとされる内容が明らかになります。
マタイ20章20節からの箇所において、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親が、主イエスに「あなたが王座にお着きになるとき、この二人の息子が、王座の右と左に座れるように」と、願う場面があります。余談ですが、マタイによる福音書の著者は、弟子たちを少しでも立派に描こうとする為、このような願いはヤコブとヨハネに代わって彼らの母親にさせていますが、ルカによる福音書では、ヤコブとヨハネ自身が直接主イエスに懇願した形で書かれています。さて、一度目の受難予告の際に、先ほどのような言い方で主イエスが「あなたがたは願うものが間違っている」と教えられているにも拘らず、三度目の受難予告の後ですら、相変わらず自分たちの想いを願い続ける弟子たちがいるのです。主イエスと共に歩んでいた弟子たちでさえ気づくことが出来ないほど、「神さまの想い」と「人間の想い」との溝は深いのです。
ヤコブとヨハネの母親の願いに対して、主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(マタイ20:22)と再び諭されます。見当違いな願いに対して、主イエス御自身が立っている場所がどこであるかを伝えるために、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20:28)と、おっしゃいます。主イエスの立場から見る「願い」がどのようなものであるかを、弟子たちに分かるように教えられるのです。
私たちはどうでしょうか。日常生活で、自分自身や家族、友人の健康や幸福を願い、また、明日のことや将来への安心を祈っています。これらの祈りの多くは、日々の生活の苦しさを取り除いてほしいという想いであり、手の届かない無力な問題に対する改善を全て神さまにお任せする祈りでもあります。私自身、日々祈りますが、弟子たちと同じように、神さまに全てを委ねていると思ってはいても、主イエスのように、愛する神の想いを聴くということは出来ていなかったように省みます。このように願うばかりの祈りの結果、自分の力では解決できない問題に直面したとき、己の力無さに痛感することが、しばしばありました。まず神さまの想いを聴いていたならば、精一杯向き合っていたならば、求めた結果がどうであれ、受け入れることが出来たはずです。しかし、自分の想いや願いに捕われて、それらを優先したばかりに、思わしくない結果が目の前に起こった時、悩みと苦しみを覚えたのだと、今は分かります。
主イエスは御自身の願いとして助けたいから人々と関わられたのではなく、人々の救いが父なる神さまの願いであるからこそ、人々と共に生き、十字架にかかって死ぬという苦難の道をも、「御心ならば」と逃げることなく歩まれました。神さまが働いておられるのですから、そこに救いの御業が示されるのです。私たちそれぞれの人生においても、神さまの御心が必ず現されるのだと信じます。 主イエスはそのご生涯をかけて、父なる神さまの御心を実現していかれました。ご自身の願いよりも、「人々が救われることを求める神さまの想い」の成就を、主イエス御自身の喜びとされたのです。主イエスが神に求める者としてではなく、神の求めを聴いて行う者として歩まれたことを覚え、改めて私自身、祈ることから問い直さなければならないと教えられました。
神さまの御心に沿うと言いながらも、神さまを私の願いに引き寄せようとしてしまうことがあります。しかし、私たちは神さまの御心を自らの願いに沿わせるのではなく、“神は行う”という御業に信頼と確信を持っていきたいのです。 本日私たちは、主イエスが“神さまの想いを実行すること”を主御自身の願いとして歩まれたことを改めて学びました。それだけではありません。これからの主日においてキリスト(救い主)としての主の苦難の道を辿っていきますが、現代に生きる私たちはすでに十字架の出来事を知らされた者です。主イエスが神さまの願いを聴き、十字架と復活を通して救いの御業を成就されたことは、私たちにとって本当に大きな喜びなのです。この喜びを噛み締めつつ、これからの日々を神さまの願いを聴く者として、共に歩んで行きたいと願います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン