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揺らがないもの

マタイによる福音書4章1-11節

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、

4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、

4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

2011年3月11日、東日本を中心としてマグニチュード9.0の地震が起こりました。地震による被害も大きかったものの、その後に押し寄せた津波によって多くの方々の命が失われたことは、私たちへと大きな衝撃をもたらしました。この出来事から、もうすぐ三年が経とうとしています。

その日私は大阪におり、微弱ではありますが長い揺れを感じました。ちょうど商店街のテレビの前には人だかりが出来ており、見れば、東北の地が津波に飲み込まれていく映像が映っていたのです。救援物資を送ることはできたものの、東北へとボランティアに行くことが出来たのは、5月に入ってからのことでした。

東北は2ヶ月経っても散乱していました。各家庭の前には瓦礫の山があり、車は屋根の上でひしゃげているのです。何よりも、海から打ち上げられたものの腐った匂いによって、改めて地震の影響を身の内に知らされました。その時、現地の方から聴いた話が、今でも私の心に深く残っています。「津波に飲み込まれた子どもは、浮かんでこないのよ」という言葉です。その方の抱える自責感や後悔などの痛みの大きさに圧倒され、押し潰されそうな思いでした。私は御言葉を知る者であったにもかかわらず、何も語ることができなかったのです。

主を信じ、御言葉に生きる私たちにとって、神さまは日々必要な糧を与えて下さる愛の塊のような存在です。そして、同時にこの世界を造られた方として、全ての信頼をおいて歩んでいます。けれども、東日本大震災以来、「神は本当におられるのか。おられるならば、何故このようなことを許しておかれるのか」との問いが投げかけられています。この現実を前にして、私たちもまた、「主よ、何故ですか」と祈るばかりです。

本日、私たちに与えられた聖書の御言葉では、40日間断食され、もっとも苦しい状況にいる主イエスへと、悪魔が3つの誘惑する言葉を囁く出来事が記されています。

①はじめに、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と空腹を自ら満たすように呼びかけます。

②次に、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある」(マタイ4:6)と語り、主イエスへと神の子である証しを求めるのです。

③最後に、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ4:9)と、全世界の支配者となる権利を手渡そうとするのです。このことから分かるように、聖書の語る悪魔は、決して主イエスを苦しみの底に突き落とそうとはしてはいません。むしろ、主イエスに“自らの力で豊かさを掴み取る”よう囁いて、神さまから引き離そうとしているのです。

しかし主イエスは、悪魔の言葉の一つひとつへと御言葉によって応えていかれました。

(1)「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」(マタイ4:4)。主イエスは、空腹であっても、食べ物以上に自らを生かす御言葉を求めておられるのです。

(2)そして、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(マタイ4:7)という御言葉を通して、自らを生かす方への信頼を悪魔へと示されます。

(3)最後に、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある」(マタイ4:10)という御言葉を通して、自らを中心として生きる道を避け、神さまを人生の土台として歩む想いを告げておられるのです。

これらの御言葉により、主イエスにとっての神さまとは、“命を与え、必要な糧を与えて生かしてくださる信頼すべき方”であることを、私たちは知らされるのです。

私たちルーテル教会の名前ともなるマルティン・ルターは、かつて精神を病むほど悩みつつ生きていた人物であると伝えられています。ルターは身近な死と対面することを通して、“神さまの審きによって、いつ自分が死んでもおかしくない”と考えずにはいられなかったのです。そこで、父親の希望であった弁護士の学びをやめて修道院に入ったのですが、聖書を読み、良い行いを積み重ねたとしても、死の恐怖を拭うことはできませんでした。

しかし、ある時、ルターへと一つの気づきが与えられるのです。「今まで“自分が神さまの正しさを考える”ことで、自らの罪を前にして赦されないと思っていた。しかし、実際には“神さまが私たちの正しさを判断される”のだ。しかも、その神さまは私たちを良しとして下さっている」。この気づきがルターの人生を180度変えることとなったのです。

“私たちは正しくないかもしれない。しかし、神さまはこの私たちを大切に思い、生かして下さっている”。私たちの教会が大切にしている理解は、ここにあります。

東日本大震災の直後に、日本の教会へと海外から電話があったことを他の牧師から聴きました。その内容とは、「日本人は、神から離れている。地震は神の審きであるから、すぐに悔い改めなさい」というものです。旧約聖書には、人々を審く神さまの姿が記されています。しかし、実際に神さまのもとから来られ、その姿を知っておられる主イエスにこそ、私たちは信頼していきたいのです。主イエスの指し示す神さまは、やはり私たちが御言葉によって知らされてきた愛と赦しの神さまに他ならないのです。震災の出来事は、決して神さまの審きではありません。そうではなく、キリストの十字架が示しているように、瓦礫に残された人と共に苦しみ、痛みを背負われる方こそ、私たちの神さまなのです。

ローマ法王へと日本のカトリックの少女から、「なぜ子供も、こんなに悲しい思いをしないといけないのですか」との問いが届けられました。その時、ローマ法王は、「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えは見つかりませんが、神はあなたと共にあります。この痛みは無意味ではありません。私たちは苦しんでいる日本の子供たちと共にあります。共に祈りましょう」と答えています。

「神は本当におられるのか。おられるならば、何故このようなことを許しておかれるのか」という痛む人々の叫びに対して、私たちは教会と言えどもハッキリとした答えを見つけることはできないかもしれません。しかし、私たちには、神さまの想いを聴きつつ、祈り、歩む道が示されています。悩みながらでも、その道を主と共に、主の御言葉と共に歩むことは決して無駄にはならないと御言葉は呼びかけています。

東日本大震災の救援活動として私たちの教会では、日本福音ルーテル教会・日本ルーテル教団・近畿福音ルーテル教会・西日本福音ルーテル教会の4教会合同で、「ルーテルとなりびと」を組織し、被災者支援をしています。現地に居る方々のニーズに答え、主イエスがされたように共に歩んでまいりました。そして、「ルーテルとなりびと」は3年間という目標を定め、もうすぐ活動期間を終えようとしています。

けれども、今も多くの方々が仮設住宅に住んでおられ、これからの歩みについて悩んでおられますし、原発の影響と闘っておられます。また、震災によって失くした大切な人の死と向き合い続けておられます。3年が経とうとも、その痛みや困難さへの癒しは訪れていません。だからこそ、私たちは遠く離れた地であっても、東日本大震災の出来事を覚えて礼拝をもつのです。

愛の塊である神さまは、今も生きて働いておられます。そうであるならば、キリスト教信仰者の人口が1%ほどの日本にあっても、主イエスがもっとも苦しい時、神さまを信頼されたように、私たちも主の歩みに従って生きたいのです。何年経とうとも覚え続け、痛む人々に寄り添って生きていきたいと願います。神さまご自身が、私たち信じる者の決して揺らがない土台となって支え続けて下さいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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