先立つ主に従って
マタイによる福音書5章38-48節
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
2月に入ってから三週に渡って、私たちは主イエスの「山上の説教」に耳を傾けています。その名前の通り、山の上で従っていた人々に語られた御言葉です。 先週語られ御言葉には、4つの小見出しがありました。(1)腹を立ててはならない、(2)姦淫してはならない、(3)離縁してはならない、(4)誓ってはならない、というものです。どれだけ成熟した人物でも、腹を立てることもあれば、自らの力に根拠を置くことがあります。主イエスの掟を、全てを守りきることが、いかに困難であるかを知らされるのです。いくら人間社会において優劣がつけられ、序列がつくられようとも、神さまの御前に立つ者は等しく罪を感じざるを得ません。自らの足りなさや欠けを知らされた者は、もはや人を蔑ろにすることは出来ないのです。
“誰一人として神さまの恵みや救いから漏れることはなく赦され、大切にされている。だからこそ、神さまの御前に立つ前に、まず互いに仲直りをしなさい”。主イエスは掟を語られることによって人の常識を打ち崩し、小さな罪をも自覚させ、それを背負う者として神さまへと向き直るように招かれたのです。 本日与えられた御言葉はこれらの掟に次いで語られていますから、同様の想いが込められています。このことを覚えつつ、御言葉に耳を傾けてまいりましょう。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:38,39)。
「目には目を、歯には歯を」というのは、紀元前1700年代に制定されたハンムラビ法典の196・197条にあるとされる言葉です。奪われたもの以上を奪ってはならないとの意味合いが込められていたようです。つまり、報復の連鎖をとめるために考えられた法律なのです。主イエスは、古くから伝わるこの掟に加えて、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われるのです。だいたいの人が右利きですから、右頬の場合、手の甲で打たれることを意味します。侮辱の込められたこの行為に対して、左の頬も向けるようにと言われるのです。
さらに主イエスは続けて言われます。
「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(マタイ5:40-42)。
つまり、奪おうとする者に対して、それ以上に与えなさいと言われるのです。けれども、主を信じる者であろうとも、“ここまでする必要はないのではないか”との問いを抱いてしまうように思うのです。なぜならば、奪う者へ与えても、その行為がエスカレートする可能性が考えられるからです。たとえば、いじめの問題です。最初は遊びだったものが、抵抗しない姿からエスカレートし、命を絶ってしまったとのニュースを見ることがあります。また、オレオレ詐欺なども同じです。一度与えてしまえば、状況がさらに悪くなるように感じてしまうのです。そうなれば、息苦しくなることは目に見えています。
なぜ、主イエスはこのような御言葉を人々へと、しかも、苦難を耐え忍びつつ生きていた人々に言われたのでしょうか。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:43-45)。
主イエスの掟には、根拠がありました。それこそが、神さまは「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」という御言葉にあるのです。腹が立ち、憎しみすら抱くその人物をも、神さまは大切にしておられることを主イエスは人々へと教えておられるのです。
一つの出来事を思い起こします。数年前、関西圏の教会へと消火器が投げ込まれる事件が何件かありました。窓などから投げ込まれた消火器によって、礼拝堂は真っ白になるのです。ちょうど被害にあった牧師が、一人の信徒の方の言葉を教えてくださいました。「どうか、消火器を投げ入れた人が救われますように」。その方は、その人のために祈られたのです。
この話は、私にとって衝撃的でした。日曜日の礼拝中であれば、怪我をした人もいたかもしれませんし、そのようなことをされなければならない理由が分かりません。もし自分の教会に投げ込まれたとき、私ならば怒りが沸き起こっていたのではないかと思うのです。 けれども、その一人の信徒の方は、投げ込んだ人のために祈られた。ここに、主イエスの御心が現れていることを知らされるのです。この出来事は私たちにとって身近な問題です。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ5:46,47)。
私たちは大切な人に優しくすることは幼いころより知っていますが、攻撃的な人に対して優しさを貫けるかと問われれば、そうではない自らの姿と出会います。しかし、そのようにできなくとも、聖書の御言葉を聴いたときから主イエスの御心が、いつも私たちへと問いかけ続けていることも、また真実です。“自らを攻撃する人をも神さまは大切にしておられる”。このことが人と対峙する私たちの心に浮かんでくるのです。そのとき、もはや人を捻じ伏せ、一方的に相手を打ち崩すことは出来ません。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)。
自らの想いとは違う道であっても、もはや私たちは主の道から離れることは出来ないのです。何故なら、私たちは主に支えられ、生かされていることを知らされた者だからです。私たちにはできなくとも、主の御心を知らされることで私たちの歩みは変えられていきます。主の心を自らの心とするとき、はじめて私たちは完全な者・欠けのない者とされていくのです。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩23:1)と言われている通りです。
2014年の私たちの宣教主題は、「先立つ主に従って」と総会で決まりました。私たちが道を切り開いていくのではなく、主が歩まれ、備えて下さった道を私たちは歩んでまいります。主に従うことで、これまで問題にもしなかったことに悩み、苦しむことがあるかもしれません。けれども、十字架の先には復活があるのです。そして、主がそこに憩いの場を備えて下さるならば、主の御許へと喜んで歩んでいきたいのです。
敵と味方とに区別する世の中へと、神さまと人との関係を考えるように語ってくださった主の御言葉を私たちは大切にしていきたい。そして、主がくださった一つひとつのものを数えつつ、私たち自身も神さまの御心を現して行けるならば、これほど大きな恵みはありません。 主の御言葉に向き合いながら、祈りつつこれからの道を歩んで参りましょう。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン