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誓いの言葉

マタイによる福音書5章21-37節

◆腹を立ててはならない 5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。 5:26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」 ◆姦淫してはならない 5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」 ◆離縁してはならない 5:31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 5:32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」 ◆誓ってはならない 5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週より、私たちは主イエスが山の上に登られ、人々に話された御言葉を聴いています。外国の小都市群に囲まれつつ、苦役に耐え忍び生きていたガリラヤの人々のもとへと主イエスは歩んで行かれました。主に従って山上に集っていた人々は、救い主の訪れを心待ちにしていた者たちであったことが分かります。中には、病人や貧困に悩む人、罪人と呼ばれていた者など、抑圧され、不当な扱いを受けていた人々も居たことでしょう。もはや自分自身の力では解決できないほどの苦しみを抱える人々だからこそ、主イエスは御言葉を彼らに語られたのです。

主イエスが歩まれた当時も、旧約聖書は人々に読まれていましたから、その御言葉を受け取っていたはずです。しかし、苦しみの中に生きる人々は平安を得ることが出来なかったのです。なぜでしょうか。それは、聖書に記される「律法」に理由がありました。

「律法」とは、神さまからの約束として伝えられてきたものです。たとえば、旧約聖書で重要な人物として登場するモーセは、「十戒」と呼ばれる“神さまから与えられた10個の教え”が記される石板を人々へともたらしました。

  • あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

  • あなたはいかなる像も造ってはならない。

  • あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

  • 安息日を心に留め、これを聖別せよ。

  • あなたの父母を敬え。

  • 殺してはならない。

  • 姦淫してはならない。

  • 盗んではならない。

  • 隣人に関して偽証してはならない。

  • 隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト記20章参照)

このように、神さまを信じる者へと守るように記される掟を「律法」と呼びます。聖書には、このような掟があらゆるところに記されています。当時は、印刷技術が発達しておらず、聖書の数も限られていました。つまり、律法の専門家や聖書の学者たちから、人々は聖書の御言葉を聴くほかありませんでした。人々へと御言葉を語る教師たちは、当然記される「律法」というものを守り、御言葉に反しないように・罪を犯さずに励んだことが聖書にも記されています。皆の宗教的指導者として、社会的な地位もあったようです。

しかし、そのような社会的な立場を持たない人々は、日々辛い仕事に励まなければなりません。④に安息日を守れと言われていたとしても、明日のパンを得るために働ければならなかったとしても、それは罪であると語られてしまうのです。こうして、聖書に書かれる掟を守れないことで一つずつ罪が加えられ、宗教的指導者たちからは見放されていくのです。聖書の御言葉を取り次ぐ人々から見放されることは、同時に“神さまからも見放される”という意識を呼び起こします。ただでさえ苦しい生活の中で、さらに神さまからも見放されていると感じてしまうならば、もはや逃げ道は断たれてしまうのです。

このように、宗教的指導者たちの自らの救いを求める熱心さから、“律法を達成できる者のみが救われる”という理解が作り上げられていきました。そのことによって、小さくされた人々から神さまは遠ざけられてしまったことを覚えつつ、本日の御言葉へと耳を傾けてまいりましょう。

さて、先ほどお読みしました聖書の御言葉には、4つの小見出しがありました。(1)腹を立ててはならない、(2)姦淫してはならない、(3)離縁してはならない、(4)誓ってはならない、というものです。それぞれ「~してはならない」と書かれていることから、緊張感をもって聞かざるを得ません。

ただ、ここで一つ気づかされることがあります。それは、主イエスが語られた御言葉が、先ほど紹介した旧約聖書に記される「モーセの十戒」に対応しているということです。そして、主イエスはそれぞれの「律法」に対して、本当の意味を明らかにされるのです。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:21,22)。

ここで語られているのは、行為だけではなく、気持ちをも神さまは見ておられるということです。人が殺人を実行する時、まず心に殺意が沸き起こります。だからこそ、主イエスは“殺さないだけでなく、兄弟に腹を立て「ばか」や「愚か者」と言うこともないようにしなさい”と言われるのです。

この御言葉の前では、腹を立てたことがない人が居ないように、誰も避けがたく神さまの前に、罪人として立たされることとなります。そこには、律法を守り非の打ちどころがないと自負していた律法の専門家たちも含まれるのです。

「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5:23,24)。

神さまの前に立つとき、人は等しく小さな者です。その中で、どんぐりの背比べのように、他者の上に立とうとする人間。けれども、すべてを見ておられる神さまは、律法をすべて守り礼拝に集うことよりも、まず互いに和解することを望んでおられます。真に神さまへと向かう心を神さまは喜ばれるのです。

見出しで示される4つの事柄すべてに、このことは共通しています。心の奥にある思いを、神さまは御存知です。誰一人としてその眼差しから逃れることは出来ないのです。

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタイ5:33-37)。

主イエスが言われた御言葉は、どれも他人事にはできないものです。心が常に神さまを見上げているかと言われれば、他のことに気を取られている時も多々あることに気づかれます。また、腹を立てまいと努力したとしても、他の人と摩擦が起きれば、怒りが湧きあがってくるときもありますし、喧嘩し仲直りをせぬまま礼拝に集うこともあるかもしれません。「絶対」という言葉が適応されないように、人はふとした瞬間に揺らいでしまうことがあるのです。だからこそ、主イエスは“誓ってはならない”と語られます。誓うよりも、むしろ自分自身の力の限界を知り、神さまに委ねる道を示されるのです。

私たちは人生の土台を主の御言葉に据えて歩み、自らの誓いよりも、すべてを備えて下さる神さまへと祈りつつ信頼したいのです。ゆえに、最後にこの「誓う」という意味について考えます。

旧約聖書の時代の信仰者にとっては、祈りもまた神さまへの誓いの一つでありました。特に「誓願」として祈りを捧げています。そして、祈りが叶えられた暁には満願の捧げ物を携えて神殿にお礼参りに詣で、誓願の際の神さまへの約束を果たしておりました。

「誓い」という単語は、「折れる言葉」と書きます。まさに、挫け易い私たちを表しているかのようです。また、単語の意味としては「折り合いの言葉」というもので、安易に考えますと「妥協」ということになりかねません。私たち夫婦も昨年、これからの人生を神さまの御前で誓い合ったばかりですから、身につまされながら、この御言葉に聴き入っております。確かに私たちは、自分の口から出た言葉、自分で祈った事柄でさえ、果たせないことはしばしばあります。しかし、このように挫け易い私たちであるからこそ、私たちの足元からしっかり支えてくれる御言葉があることの意味として、この「誓う」という言葉をもう一度受け取り直したいと思います。挫け易い私たち、祈りつつも果たし得ない私たちを、足元から、人としての根っこから支えている神さまの御言葉があることを覚えたいのです。

聖書に記される「律法」は、人を神さまから遠ざけるものではありません。むしろ、“罪の中に立つ者”の目を神さまへと向かせ、“神さまへと委ねる者”へと方向転換させるものなのです。一人の迷う者が神さまへと立ち返る、ここに神さまの大きな喜びがあります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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