輝かせるべき個性
- Feb 2, 2014
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マタイによる福音書5章13-16節
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちは聖書から、主の招きの御言葉を聴きました。主イエスはガリラヤ湖で漁師をしていたペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブの兄弟を弟子として招かれました。“散らされたユダヤの仲間を集め、自分たちの国を取り戻したい”と願っていた4人にとって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)との主の呼びかけは、すべてを捨てて立ち上がる契機となりました。そして彼らは、主イエスの御後に従って歩み始めたのです。
そのように、主は一人ひとり特別に招きの言葉を用意してくださいます。皆が同じものに心を打たれるわけではないように、神さまは一人ひとりが求めるもの、必要な御言葉を手渡して下さるのです。だからこそ、異なる個性を持った者同士でありながらも、私たちは同じ神さまを見上げることができるのではないでしょうか。私たちは今一度、自分自身に主が語ってくださった御言葉とは何であるか、また、どのような出来事や、誰を通して語られたのかを思い起こしたいのです。そして、これから新たに語られる御言葉へと耳を傾けてまいりましょう。
先ほどお読みした御言葉は、山の上に登られた主イエスに従った多くの人々へと語られた御言葉です。「山上の説教」と呼ばれ、古くから多くの人に親しまれてきた御言葉です。すでに確かめてきたことですが、主イエスが御言葉を語り始められたのは「ガリラヤ」という地域です。この地に住むユダヤの人々は、外国の都市に囲まれつつも、神さまの約束が成就する日を望みつつ暮らしていました。生活の糧を得るために人がしたくない仕事を請け負い、苦しみを我慢して生きて来たユダヤの人々がたくさんいるこのガリラヤの地から、主イエスは御言葉を語られたのです。つまり、山の上へと歩まれる主イエスの御後に従っていたのは、そのような苦難を生きて来た人々、社会からはじかれていた人、罪人として仲間からも見放された者もいたことでしょう。本日の御言葉が、そのように人が近づかず、触れない暗闇のもっとも深いところを生きていた人々へと語られたということを覚えたいのです。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(マタイ5:13-15)。
主イエスは集った人々へと“あなたがたは地の塩・世の光である”と宣言されました。
この世における塩と光の役割とは、どのようなものでしょうか。塩は、食物をやわらげ、味をつけ、腐敗を防ぐ効果を発揮します。また、塩が無ければ人は健康を保つことはできません。このように、塩は食材を引き立たせるだけではなく、人が生きていくためには必要不可欠なものであることが分かります。
光も同様です。光が届かない場所では、触れられるのではないかと思えるほど暗闇が濃いのです。今、室内でも周りを見渡せるのは、反射した光が差し込んでいるからです。また、光はすべてを温め、生けるものの身体を目覚めさせ、成長させ、行く道をも照らすのです。この光が無ければ、私たちは快適に暮らしていくことはできないのです。このような塩と光、どちらも人の生活に欠かすことのできないものであることは自明です。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。
塩と光の役割を考えますと、主イエスの御言葉の意味が浮かび上がってまいります。“あなたがたは地の塩のように、人を味付けして引き立たせ、人を生かす者である。あなたがたは世の光として周りを照らし、迷いの中にいる人へと道を示して共に生きる者である。だからこそ、あなたがた自身の存在を神さまからの光として、主を証ししなさい”。一見、“強く在らなければならない!光として輝かなければならない!”と、聞く者を押し出す言葉のようにも受け取れます。
しかし、この御言葉は、権力を持ち、裕福に暮らしていた人々に対して語られたのではないということを私たちは知らされています。救いが主イエスからもたらされることを信じ、どうしようもない状況の中、主イエスの御後に従って集まった人々に語られた御言葉だからです。病気の者、貧しい者、罪人と呼ばれていた者、人から避けられていた者。何かを変えたい、今の状況を脱したいと考えていたであろう人々へと、主イエスは“あなたがたは地の塩・世の光である”との御言葉を、主よりの宣言として告げられました。ボロボロの姿だったからこそ目をとめられ、その在りのままの姿を“地の塩・世の光”と宣言してくださっているのです。これが私たちへの福音です。
「お前はいらない・必要ない」と言われ続けている人へと、“他でもない神さま御自身が、この自分を必要としてくださった。この世に必要な存在だと語ってくださった”ということを伝えるに十分な主の御言葉は、どれほどの喜びをもたらしたことでしょう。たとえ、人々によって、あるいは自分にさえ見放された者であろうとも、神さまは必要としておられるという御心を私たちは知らされるのです。
主は今も、地の塩・世の光として造られた私たちが、生活の中でそれぞれの存在を輝かせるよう望んでおられます。これは主の喜びであり、楽しみです。
これまでの歩みの中で、誰にも言えない後ろめたさを抱えており、いつになっても情けない自分と決別できない人も少なからずおられます。地の塩のように周囲の人を味付けして引き立て、世の光として社会の暗闇で輝き、人に道を示し続けてきたかと言われれば、私自身懸命にそう願いつつも、決してそう在り続けることは出来なかったと言わざるを得ません。
しかし、神さまは、そのような私たちに、“あなたがたは地の塩・世の光である”と告げておられるのです。
能力や効率が優先される社会においては、人とコミュニケーションをとるのが苦手な人や、不器用な人はそれだけで端へと追いやられてしまいます。挑戦しようとしても、出る杭は打たれてしまうのも現実です。しかし、私たち一人ひとりは神さまに喜ばれる存在としてこの世に生を受けた者です。そして、一人ひとりには個性と呼ばれる“賜物(神さまからのプレゼント)”をしっかりといただいています。神さまの目には、既に私たちは輝いているのです。
そうであるならば、神さまからすでにいただいている賜物をもって、輝きつつこの世界で人々と共に生きていきたい。地の塩・世の光と宣言された者として、この世界を歩んで行きたいのです。“あなたが必要だ。あなたらしくこの世界で輝いていきなさい”。主の御言葉は私たちの背中を押し、送り出してくださいます。その御声に力づけられながら、私たちは共に祈りをもって歩んでまいりましょう。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン


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